昭和五十一年一月十三日 朝の御理解
御理解 第七十八節 神の機感にかのうた氏子が少ない、身代と人間と達者とがそろうて 三代続いたら家柄一筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわ ぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)こ とがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを 知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続 き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。
神の機感に適うという事。どういう人が神の機感に適うておるかと、人間と身代と達者とが揃う、とこう言っとられます。そういうおかげを受けておる人を見ると、はああ、ああいう人が神の機感に適うのだなとわかるわけです。
神の機感に適う。いうならばお心に適うというわけです。だからもう信心はどこまでも神の機感に適う、氏子にお取り立てを頂く願いを持たしてもらい、またそのための修行なら厭わんという姿勢を作る以外にはないようです。自分で自分を思い、見て見て、自分がこんなこういうところが神様の機感に適わぬのだろうとわかったらやはりそこを改めていくことに精進しなければいけません。
例えば、今日は小倉の教会の報徳祭であります。先日からご案内を頂いておりましたから、ここへちゃんと思いながら置いておったんですけれども往復葉書で参拝するかしないか通知をしなければならなかった。もちろん十三日会がありますからお参りができませんから、こんな訳でお参りが出来ませんからと言うていつもお初穂をお送りするのです。昨日になってから、あらっと思い迂闊にしておりましたから昨日改めてあちらにお送りさせて頂いたんです。それで私はそのことを西岡先生にお願いしたんです、お初穂と送料と。それから夕方、ほんに送って頂いておったか、電報為替で送るように言っとりましたからどんなになっただろうかと聞きに行ってもらいましたら、送ったとこう言う。でもしばらくしたらまた私がお風呂入っとったらまた西岡先生が見えてから速達でも間に合うということだったそうですから速達で送らせて頂きました。とこう言うわけです。それで私があらっ、とこう思うわけです。私は西岡先生にお願いしたんです。だから西岡先生はまた誰かに頼んだ様になるわけです。そういう時に私は本当にあらっ、と思いますがね。信心はね、このへんが大事なところです。親先生が、ああ言われたからどういうご都合があるやらわからん。要件はそれで十分事足りているわけです。昨日の御理解を聞くと、昨日は実意ということをあらゆる角度から頂きましたですね。私は神の機感に適う人は、私は必ず実意だと思いますね。もちろんお道でいう実意というのは昨日からも頂きます様にその内容には丁寧、神信心というのがあります。だから実意丁寧神信心と、それが金光教でいう実意なのです。だからお道の信心じゃない他の信心なら、また信心がない者なら例えば私が西岡先生にお願いした、お願いした事をまた西岡先生が誰かに頼まれた。そしたら電報為替で送れと言うたのを速達で送った。なるほどそれの方がうんと料金も安いから、ああ良かった、ああ良かったですねどうもご苦労さん。それで立派なことです。ところがどっこい金光様のご信心はそれではいけんのです。特に昨日の御理解を頂くと、それではいうなら頼んだ者が頼りがない。いうならば願い甲斐、頼み甲斐のある信心者にお取り立てを頂かねばいけません。
昨日は美登里会の研修会でした。昨日はどうしたことだったでしょうか。まあ一時の御祈念を頂いてすぐから始めるんですけども、まあだ見えておられる方が二人かだった。それでも昨日はおかげんの泉を皆テープを聞いて頂いてそれをこれにするあれにするということをいつも決まるもんですから。だから私はそれを聞かせて頂いて、それから三十分遅れて来る人一時間遅れて来る人、まあもう終いがたに来る人、いろいろございましたから。そらなるほど、美登里会という信心グループの方達が顔を合わせただけでもそりゃ効果があるです。けれどもね、神の機感に適うとか実意とか丁寧とか神信心というのはもう皆落第しとるわけです。二人の人は別ですよ。ちゃっと一時の御祈念から見えとられました。そしてそれがそんなら難しいことかというと決して難しい事ではないです。もうそれこそ金光教の信心はね、いうなら神の機感に適う生き方になるということは難しい事ではないということです。
いわゆる実意とはキチッとする事だと昨日は頂きましたよね。帰りがけに皆さんにもいうならば合楽の美登里会と言や、婦人会の中の、また朝の御祈念を当時頂いておられた方達ばっかりで出来た信心研修のグループである。いうならば合楽の信心を代表するほどしの方達ばかりである。しかも美登里会はいわばある意味で楽しみに思って皆が集まられる会合である。一時間遅くなったら他の方達に十人おるならば十時間いわばマイナスになる様な結果になる。まあ昨日私は待たずにそれを致しましたから結局なら、来た人達は研修の半分しか受けられなかったことになる。惜しいでしょう。ね、いいですか神の機感に適うということがいうならば一番最後に皆が求めてやまないところの子孫も続き、身代も出来一年勝り代勝りのおかげが受けられるというね、そういうおかげが皆頂きたいでしょう。そんなら先ずは私は神の機感に適う、いうならば信心。自分の身辺からですそういう機感に適わない事どものある事をです。わからしてもろうてそれを改めていく、それは信心なりです。その人なりです。いかに日参り、夜参りさせて頂いておりましてもですね、その一番見易い事がです、出来ない。これではやはり、「うんあの氏子は間違いない」まずそういう神様の信用がつかなければ神の機感に適うという事にはならないと思うのです。難しいことじゃないでしょうが。
昨日は学院に今行っとります四名の方達が一人一人教会修行に出向いて行きました。池田さんが大隈教会、恵子さんが平尾、田中さんが前原、竹内君がどこでしたか。というふうにまあ、めいめいにめいめいが此処でお届けしていくことが、どういう心掛けで修行にやらして頂いたら良かろうかと皆聞くわけです。私はね信心の姿勢というのはこういうそこが大事だと思うです。しっかり修行にやらして頂く、どういう姿勢で教会に一週間でありますけれどもめいめい修行に出らして頂く。
それで私は其処そこ御比礼が立っている教会ばっかりだから何かそこに良いものがあることは間違いないのだからね、とにかくあちらの教会長先生のお指図のまにまにいうならばそこ流の信心をまあ一週間ぐらいでわかるということはないだろうけれどもそこんところを学んで来ることだよと。必ずしも合楽の行き方でその教会に行ったんでも行ったんではチグハグのものになってくる。どういう風に違うかわからんけれどもそこの信心を頂く、という気持ちでいくことがそれがそのまま合楽示現活動につながる事だよと申しました。とにかく何でも同じです。何の稽古さして頂くでもまず姿勢、構えです。それをなら金光様のご信心は実に見易いのです。 今日私は『異体同心此処』と頂きました。異とは異なるということ。体はからだです。それぞれの信心の程度も違う。それぞれいうならば別々である。けれども心は同じだといういう事です。これを大きく金光教というふうにいうならば、金光教の信心者はどの人を見てもやはり実意だというところに金光大神と交流するものが生まれてくると思うです。 合楽の場合なんかになりますと、例えば今、大祓信行の徹底に皆さん一生懸命になっておられます。ですから、それが居る所は違う、体は別々であっても願っておる事は同じ時に同じ時間に同じ事を唱えておるというだけ、そこは心は同じだということ。最近のですね、この大祓信行には、私がこれだけやかましく申しますからその事だけに神様が非常に神経を使うて下さってあるものを感じるのです。おかげを受けるです。その気になったら。
昨日も研修会の時に、秋山さんがお届けをしておられましたが、久留米に娘が嫁行っております。もちろん、信心のない家に嫁行っておりますから、まあ拝むこともできませんし、またはこっそりとでん拝むというごと熱心さでもないわけです。ところが、子供が大変具合が悪い、医者にでもかけんならん様に悪い。それでこの前、正月北野に帰らせて頂いた時に秋山さんが今一家中で大祓信行やってる、その事をフッと思い出させて頂いて、「はあ何時から北野では大祓信行」、大祓信行なんかも知らないくらいでしょう。皆で時間を揃えて大祓を奏げよんなさったから、ほんに自分もお母さんが言うとったけど上の空で聞いとったけどもあの事は実行しようと思うて実行した晩からおかげ頂いてから、ケロッとおかげ頂いた、という話が昨日ございました。というようにです、親が言うことをハイと素直に聞いてです。同じ心になった時にです、もちろん今の合楽、大祓信行ということには私の祈りが日々込められておりますからそういう働きを皆が受けておるわけです。やっぱりそこんにき、純粋さとか素直さというものがね。そこに私は今、合楽の信心が足並みを揃えておるならそこのところに揃うておらなければいけない。
昨日私はいろいろお話を、皆さんの聞かせて頂いて本当に感心しましたんですけどもやっぱ、美登里会の方達の場合になるとやはり信心が高度ですからね。昨日なら昨日の御理解の発表、どこを頂いておるかということを発表されましたが本当に見事に、まとめてもあるし頂いておられますですね。特に私は高山さんの発表聞かせて頂いてから、ここの修行生の方達もみんな一緒におりましたから、「今、高山さんの言わっしゃったことだけはあんた達がまとめとるとに、もう一つあれを加筆しときなさい。書き加えときなさい」と言うて、まあ言うたことでございました。
「親先生私は今朝の御理解を頂いてから、もう本当に今までの信心の実意のなかったこと、いわば横着であったこと。もう本当に穴があれば入りたいていうのはこのことじゃろかという思いが致しました。」とこう言うのです。「どこばそげん考えたの」と私が申しましたらね。いうならば、合楽の総代として、また、信心もあれだけできますし、信念も非常に強い方です。もうどういう問題のある時でもそれこそお取次ぎを頂いたら、ある意味でびくともせんぐらいな。女ながらもそういう信念の非常に、確信の強い方です。お父さんが亡くなられて、こっちでもかえっておかげを受けとられますもんね。子供達もこの頃、孫達にいたるまでがもう、おばあちゃんおばあちゃんと言う、おばあちゃんの信心についてくるんです、嫁達もみんな。いわゆるその大祓信行でもいち早くあそこはおかげ頂いて、とにかく毎晩大祓信行さして頂く時においさみがない時はないと言われる。だから孫達もそれが楽しみで大祓信行に参加するというわけです。
ですからね、「この神様は願わんでも頼まんでも、おかげ下さると信じておりました」とこう言うのです。だからなるほど信ずる者を信ずる、と仰せられるから「神様はおかげは下さったけれども、なんと横着の氏子じゃろかと思いよんなさったじゃろうと思いました」と言うのです。そして自分の信心の目の荒いことに改めて気付かせて頂いて、思えば願わんならんこと、縋らんならんこと。これはいつも親先生が言わっしゃる「願い信心、頼み信心だけじゃいかんよ」と言われるけれども、今日の御理解は願い信心、頼み信心じゃない、縋らにゃおられんという信心だというわけです。
もう私はこの事をですね、修行生の先生達に申しましたんですが、「あんた達は学院に行ってから、この御理解の時に今のところの発表をしたならばね、おそらく金光教のね、金光教の偉い先生方皆が「はぁ-」と言うじゃろう」と私が言いました。もう偉い先生ほどです、願わんでも頼まんでもちゃんとこちらが信心しときゃ、神様がちゃんとおかげを下さる、そげん一々頼むことばっかり願うことばっかりせんでもと言うてやっぱり、おかげを受けたらそれを信じておられるから。けれども信じとるからおかげは受けておられるけれどもです。神の機感に適う信心じゃないということです。そして改めて私は三代金光様のそれこそ、子供が泣きよったら、むずかりよったら、どこか痛い痒いがありだんせんじゃろかと思うたら願わにゃおられんと、「今、ここの上を飛行機が通っておりますと、あの飛行機がどうぞ無事に目的地に到着致します様に祈りますのじゃ」と仰った。私はある参拝の時に、冬でした金光様はご承知の様にあの御神米をそれこそ何万体ともわからん御神米をサーッとお下げになりますよね。ですからここんところに赤切れが切れるそうです。後からその後に聞きましたが、ここへね、あら金光様は指をどうかなさっとるばいな、御神紙がここに巻いてある。お剣先様が、如何に縋らにゃおられないものを持っておられたかということをこれだけでもわかるでしょうが。ちょいと絆創膏でも貼っときゃいいがというようなもんじゃないわけです。本当にです、私は改めて金光様がそれこそ縋らにゃおられない信心を頂いておられたな、ということを改めて昨日は教えて頂きました。
その高山さんのお話を聞かせて頂きながら、本当に今までの信心は願わんでも頼まんでもと、言うようなことがです、いかにも信心がでけとったかの様に思うておったけれどもそうじゃあない。昨日の御理解頂いておりますと、信心がでけたほど、できればできるほど縋らなければおられない、というそれは自分が無力であるということがわかればわかるほど縋らにゃおられないという御理解でしたから。
だから本当に牛馬のことにいたるまで実意をもって願えと仰るあの信心のあのところの言葉の深さというものを昨日改めてわからせて頂いたわけですけれども。ここがわかった時に初めてです、金光様の信心、信者ぶりというものが生まれてくるです。どうして、そういうね信者氏子にお取り立てを頂くということが、まづは神の機感に適うということになるのだと。一番最後の、「身代もでき、子孫繁盛家繁盛」と。ただ、神のおかげを知らぬから互い違いになるとか、神の大恩を知れば無事達者とか、もう一通り神のおかげがわかった様に思うておった。神の大恩を知っておる様に思うておる。けれども神の機感に適うということになるとまだまだこんなことではということに、改めて気付かせて頂いたんですけども。まあ、そういう意味で私共もですね昨日も申します様に縋らにゃおられんことばっかりなんです。そして自分自身縋っておるという事を、まあ御理解頂いてから気付かせて頂いて、今日の御理解を頂くと「ははあ、私はこげんところが神の機感に適うたのじゃなかろうか」というふうに思うのです。
大坪さんと言うて、例えば親先生が私に物を頼みなさったならば、それを人に頼むという様なことは今までかつてしたことはなかもん。もうそれこそ足をこんなこう怪我しとる時でも土が中にいっぱい入っとる時でも、もう今日は風呂に入られんという時でも、親先生が風呂に入れと言いなさったら、「親先生が言いなさったから」と言うて入りよった。そういうところがですやはり神の機感に適うということになるとするならばです。こりゃまた改めて私共の信心にです、神の機感に適うための信心がそんなに難しいことではない事をです、わからしてもろうて昨日の御理解から頂く、それこそキチッとした、いうならばあり方を身につける。例えば時間励行といった様なことでもです、もうせめて五分前といった様なね、信心を身につけさせて頂いたらいうならば、「うん、あの人は絶対間違いがない」と例えばなら思いますよ誰だって。もうこの人だけはこれだけはキチッとした事、いう事になってくると。それがなら一事が万事にそういう私は、もう本当にいわば行おうと思えば行えれる、見やすいところに私共はうっかりしている。いうならば力の入れなければならんところを入れずに、ただ一生懸命にお参りをするという事だけにかけておるといった様なことではいけない。
異体同心ということを私頂いたが、今、合楽ではです。この異体同心が一番求められておる時じゃなかろうかと思います。いわゆる。打って一丸とならなければならないところはどこか、いうならば大祓信行にかけるということにもなりましょうが、そのもう一つ向こうに神の機感に適う私にならせて頂くことを願い、そしてその一線上に出てそこから大祓信行という様な事になってくればです。信心はそれぞれに段階があります。おるところも違います。体も違いますけれども例えばそれが時間を合わせて、時間を切ってでも私は大祓信行がなされるなら必ず合楽全体の心が一つに結ばれるだろうと思います。そこに合楽全体の信者がです、神の機感に適のうた一つのかたまりの様な信心ができます。そこからいよいよ合楽示表活動に参画ということも有り難い和賀心時代を創るという様な大きな神様の願いにお応えができる。バラバラでは持ち上がらぬ皆が心を揃えてといえばどういう物でも、重たい物でも例えば持ち上げることが出来る様な、そういうおかげを頂きたい。特に今日は異体同心というところにいうなら時間を遅れるといった様なことではなくて、一時というたら一時に皆が集まっておれれるところから私は発足して行かなきゃならん。なそうと思えばなされることをなさないのはそれはそのまま横着です。「よかよか自分一人ぐらいのこと」その心がいわゆる金光教的な信心、いうなら実意丁寧神信心にもとるからもうそのことだけでも神の機感に適わぬ。もうあれはあてにはならんという様なことがです。例えば、あれは当てにならん信者がどれだけおったって、ある意味では烏合の衆ということになります。
信心は程度は低うてもです、そういう行じようと思えば行じられるところえ実意をかけて信心させて頂きたいと思いますね。どうぞ。